知ってほしい、この場所のこと《大船渡・住田・陸前高田》

〜大船渡〜

大船渡の人たちがよく言うのは、「お隣はアメリカだかんな」という言葉。アメリカまで海続きの太平洋から、日本列島に深く切れ込んだ湾の奥に大船渡のまちはあるからです。水産のまちであるとともに、豪華客船も寄稿する大船渡の人たちにとって海は誇りだったのです。

でもその海が多くの仲間たちの命を奪ってしまいました。あの日、急坂の多い大船渡のまちでは、二波、三波と押し寄せて来る津波の中に、助けを求める声が細く長く聞こえたそうです。急坂を駆け上がって津波を逃れた人たちは、引き波で水位が下がるたびに、声が聞こえた方へ助けに坂道を下り、急な坂道を担ぎ上げ、何人もを助け出したと聞きます。「でもな、何波目かが押し寄せて来た頃には、もう声が聞こえなくなったんだ」

その年の初夏、港に注ぐほんの小川のような流れには、信じられないくらいのホタルが飛び交ったそうです。大船渡の人たちは、ホタルは亡くなった魂に違いないと信じました。


オメたち、ちゃんと立て直すんだぞ。この海とこの土地を踏みしめて、
オラたちの大船渡を。


大好きだった海に奪われた命たちの声は、今日も大船渡の人たちのこころの中で聞こえています。


オラたちの強さを見せてやるんだ。

〜陸前高田〜

震災から七回忌、2017年の慰霊祭の翌日。海が見下ろせるかさ上げ工事現場から、2000枚を超える連凧が空と地上をつなぎました。凧の数はこの地で亡くなった人の数、人口のおよそ1割に相当する数です。

 

陸前高田でのワークショップに積極的に参加してくれる女性は、空に向けて連凧を繰り出しながら、

「みんな元気でいるからね」

と念ずるように語りかけていました。

美しい松原が土砂の山に変わってしまった陸前高田。震災から7年目になってようやく、かさ上げで造られた新しい土地に新しい中心商業施設がオープンしましたが、あたりはかさ上げ造成工事の真っ最中。ひっきりなしに砂埃が舞い上がります。中学校の校舎から10分近く離れた仮設グラウンドの周りでも、今日も明日も重機が砂塵を巻き上げます。まるで砂漠のように。

たとえ今は砂嵐の土地であっても、陸前高田の人たちは、これから砂漠にオアシスのような場所をつくります。小さなオアシスから新しいまちをつくって行きます。

 

来年も再来年もずっとずっと、連凧がつなぐ空にちゃんと報告できるように。

 

「みんな元気でいるからね」


知ってほしいのはレプリカになってしまった一本松ではありません。知ってほしいのは陸前高田の人たちの現在。いまを生きる人たちのこと。

〜住田〜

住田町でおすすめの観光スポットはどこかって? 宮沢賢治ゆかりの種山が原とか神秘的な竜観洞とかいろいろあるけど、個人的には気仙川の上流にかかる松日橋だな。ずっと大昔からの木の橋で、大水の時には自然と流されるようにできてる橋なんだ。橋が流れたら困ると思うだろうけんど、橋にいろんなものが引っ掛かって水が集落に流れ込んできたり、鉄砲水の元になったりしたら、もっと大変なことになるからな。昔から伝わる知恵の結晶なんだよ。

でもその代わり、橋が流されたら集落のみんなで直さなきゃならねえ。水が引いた後、川の中にずぶずぶ入っていって、ぶっとい杉の木の橋を架け替える。流されたら架け替える。また流されればまた架け直す。ここじゃ昔からずっとこうして生きてきた。そういうもんなのさ。

江戸時代よりもずっと前から、住田の町は沿岸の大船渡や陸前高田と、内陸を結ぶ街道の結節点。カッコよく言えば交通の要衝だから、昔からずいぶん栄えたんだよ。今だって沿岸部とは親戚同士みたいなもんだから、震災は人ごとなんかじゃない。我が身自身のことだった。震災前から用意していた木造仮設住宅をすぐに建てた。救援活動の基地にもなった。全国からのボランティアが住田で生活した。

壊れたら直す。それでも壊れたらまた直す。そりゃあ直せねえものもあるけれど、直せるものはみんなで直す。松日橋みたいにな。それが住田の生き方なんだ。